バーニー・ウォーレル, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=366760 / CC BY SA 3.0

#アメリカ合衆国のキーボーディスト
#アメリカ合衆国のオルガニスト
#アフリカ系アメリカ人のミュージシャン
#ファンク
#ニューイングランド音楽院出身の人物
#ニュージャージー州ロングブランチ出身の人物
#肺癌で亡くなった人物
#1944年生
#2016年没
バーニー・ウォーレル(Bernie Worrell、1944年4月19日 - 2016年6月24日)は、アメリカ合衆国のミュージシャンでキーボーディスト、オルガニスト、アレンジャー。
ニュージャージー州ロングブランチ生まれ、ニュージャージー州プレインフィールド育ち。
Pファンク主要メンバーの一人。
バーニーはトラック運転手の父と、教会で歌う歌手で家政婦の母の子として生まれた。
3歳からピアノを習い、4歳で初めてのコンサートを行い、8歳でピアノ協奏曲を自作し、10歳でワシントン・シンフォニー・オーケストラと共演するなど早熟・天才として知られ、また絶対音感の持ち主であった。
8歳でニュージャージー州プレインフィールドに移住した。
プレインフィールドでは母の目を盗んでジョージ・クリントンの床屋に通い、ジョージとザ・パーラメンツのために譜面を読み書きしてあげたりしていたという。
高校卒業後ジュリアード音楽院でプライベートレッスンを受けた後、アメリカ名門音楽院の一つであるニューイングランド音楽院に進学し、クラシック音楽を学んだ。
同院在学中にバーニーは、ナイトクラブでR&Bやジャズも演奏し、またチュビー&ザ・ターンパイクス (Chubby & The Turnpikes) というグループで演奏した。
このグループは後のタヴァレス (Tavares) である。
同院卒業後はソウル歌手マキシン・ブラウン (Maxine Brown) のバンドリーダーを約5年間務めた。
1969年ジョージ・クリントンに勧誘され、ジョージ率いるファンク・ロックバンド、ファンカデリックのファースト・アルバム『ファンカデリック Funkadelic 』の録音に参加した。
そして1970年発表のファンカデリックのセカンド・アルバム『フリー・ユア・マインド Free Your MInd...And Your Ass Will Follow 』から正式にバンドのメンバーとしてクレジットされるようになった。
またファンカデリックと同じメンバーからなる別名のファンクグループ「パーラメント」においてもキーボーディストとして活躍した。
このファンカデリックおよびパーラメントの作る音楽をPファンクと呼ぶ。
バーニーはPファンクにおいて、ピアノ、ハモンドオルガン、モーグ・シンセサイザーを駆使し、まさに革新的・独創的な音作りを行った。
その他シンセサイザーによるストリングアレンジその他Pファンクの音作りの根底を築いた。
その他、Pファンクの周辺グループであるブーツィーズ・ラバー・バンドやブライズ・オブ・ファンケンシュタインにも参加し、メンバーの出入りの激しいPファンク軍団において最初から最後まで参加した、最も重要な中心人物である。
1980年代に入るとPファンクの活動は急速に収束した。
バーニーは1980年代にトーキング・ヘッズの準メンバーとして活躍した他、スライ&ロビー、プリテンダーズ、キース・リチャーズ等、数多くのミュージシャンと共演、客演し、非常に数多くのアルバムを残している。
1990年にはキース・リチャーズ、デヴィッド・バーン、ハービー・ハンコック等をゲストに迎えたソロ・アルバム『ファンク・オブ・エイジズ』を発表し、それを機にソロ活動も継続的に行うようになった。
2004年には、ベーシストのレス・クレイプール、ギタリストのバケットヘッド、ドラマーのブライアン・マンティアとコロネル・クレイプール・バケット・オブ・バーニー・ブレインズを結成し、アルバムを発表している。
2016年6月16日、ステージ4の肺癌であることがバーニーの妻を通じてアナウンスされた。
2016年6月24日、肺がんで逝去。
72歳没。

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